皆さんが「そろばん」と聞いて思い浮かべるのは、どのようなものでしょうか。多くは、学童期に使ったプラスチック製の珠(たま)や、手頃な価格の木製そろばんかもしれません。
しかし、その一方で、熟練した職人の手によって生み出される「高級そろばん」の世界が存在します。
一見すると同じように見えるそろばん。電卓やPCが普及した現代において、数万円、時には十数万円もするそろばんは、一体何が違うのでしょうか。
今回は「道具拝見」として、その違いを生み出す「材質」と「職人の技」の秘密に迫ります。
1. 「珠(たま)」が違う:カバとツゲ、二大巨頭
そろばんの命とも言えるのが、指で直接弾く「珠」です。高級そろばんの珠は、その材質から違います。
樺(カバ):硬さが生む、明瞭な音
高級そろばんの珠として、古くから愛用されてきた代表格が**「樺(カバ)」**です。特に「斧折樺(オノオレカンバ)」という、斧が折れるほど硬いとされる木材が使われることもあります。
- 特長: 非常に硬く、密度が高い。
- 利点:
- 耐久性: 長年使っても珠がすり減りにくい。
- 音: 珠同士がぶつかった時に「カチッ、カチッ」と乾いた明瞭な音を立てます。このリズミカルな音が、計算時の集中力を高めてくれると言われます。
柘植(ツゲ):指に吸い付く、最高級の感触
そして、そろばん珠の最高級素材として知られるのが**「柘植(ツゲ)」**です。
- 特長: 木材の中でもトップクラスの緻密(ちみつ)さと硬さを持つ。
- 利点:
- 滑り: 非常に滑らかでありながら、適度な摩擦がある。これが「指に吸い付く」と表現される独特の感触を生み出します。
- 精度: 珠が止まってほしい位置でピタッと止まり、不要な滑りやブレがありません。
- 経年変化: 使い込むほどに珠に美しい艶(つや)が生まれ、飴色に変化していきます。「道具を育てる」喜びに満ちた素材です。
2. 「枠(わく)」と「桁(けた)」が違う:道具の「核」となる部分
そろばんの使い心地は、珠だけで決まるのではありません。全体を支える「枠」と、珠を通す「桁(軸)」が非常に重要です。
枠材:歪(ゆが)まない安定感
高級そろばんの枠には、硬く、温度や湿度の変化に強い高級木材が使われます。
- 黒檀(こくたん)や紫檀(したん): 非常に硬く重い木材で、そろばん全体に安定感(重み)を与えます。これにより、高速で珠を弾いても本体がブレません。
- 緻密な組木: 枠の四隅は「留(とめ)」と呼ばれる技法で、釘を使わずにピッタリと組まれています。職人の精密な加工技術により、長年使っても歪みや隙間が生じないのです。
桁(軸):滑りを決める「芯」
珠が通る細い棒(桁)にも、こだわりが詰まっています。
- 煤竹(すすだけ): 囲炉裏(いろり)の煙で数十年〜百年以上いぶされた竹(煤竹)が使われることがあります。この竹は、適度に油分が抜け、表面が滑らかで硬く、珠の滑りを最高のものにします。
- 真竹(まだけ): しっかりと乾燥・吟味された真竹も、反りや狂いが少なく、安定した使い心地を提供します。
3. 「使い心地」が決定的に違う:職人の精密な「仕上げ」
最高の材質を使っても、それだけでは高級そろばんは完成しません。0.1ミリ単位の精度が求められる、職人の「仕上げ」こそが、使い心地を決定づけます。
- 珠の穴あけ: 珠の穴が大きすぎれば珠がブレ、小さすぎれば滑りが悪くなります。桁に対して絶妙な精度で穴が空けられています。
- 珠の形状: 高級そろばんの珠は、指が触れる「稜(りょう)」(角の部分)がシャープに仕上げられています。これにより、指先に明確な感触が伝わり、ミスのない確実な操作(運珠)が可能になります。
- 組み立ての精度: 全ての部品が寸分の狂いなく組み立てられることで、珠は「軽すぎず、重すぎず」という絶妙な抵抗感を持ち、弾いた位置でピタリと止まります。
道具が、使う人の技術に応えてくれる。 それが高級そろばんの本質です。
練習用のそろばんでは許容されてしまう「あいまいな操作」が、高級そろばんでは通用しません。しかし、使い手が正確に操作すれば、そろばんは100%の精度で応えてくれます。
まとめ:なぜ今、高級そろばんなのか
電卓が「答えを出す」道具であるなら、そろばんは「人間の能力を引き出す」道具です。
職人が作った高級そろばんは、単なる計算機ではなく、使い手の指先と一体化する**「精密な楽器」や「相棒」**に近い存在です。
- **カバ(樺)**の明瞭な音。
- **ツゲ(柘植)**の吸い付くような感触。
- **黒檀(こくたん)**のどっしりとした安定感。
これら全てが一体となり、使う人の集中力を極限まで高めます。もしあなたが、そろばんの技術をさらに高めたい、あるいは一生モノの「道具」に触れてみたいと思うなら、一度、職人仕上げのそろばんの世界を覗いてみてはいかがでしょうか。
その「カチリ」という一粒の音に、日本のものづくりの粋(すい)が詰まっています。

