お子さんが算数の問題の前で頭を抱えている姿を見るのは、保護者にとって辛いものです。
「一生懸命教えているのに、どうして理解できないのだろう」
「もしかして、算数の才能がないのでは?」
そんな不安や焦りを感じることもあるかもしれません。しかし、その算数が苦手という問題の根源は、本人のやる気や能力の欠如ではなく、脳の特定の働きである「ワーキングメモリ」にある可能性が、近年の研究で指摘されています。
この記事では、算数の学力とワーキングメモリの科学的な根拠(エビデンス)を詳しく解説し、なぜ昔ながらの学習法である「そろばん」が、その問題を解決するための強力なツールとなり得るのか、その具体的なメリットを解き明かしていきます。
この記事を読み終える頃には、お子さんの苦手意識の裏にある原因を理解し、希望に満ちた具体的な次の一歩を踏み出すための知識が得られるはずです。
脳の「作業台」– あなたの子どもが算数が苦手な本当の理由
算数のつまずきの背景には、しばしば「ワーキングメモリ」と呼ばれる認知機能が関係しています。これは単なる記憶力とは異なり、学習全体の土台となる重要な能力です。
1.1 ワーキングメモリとは?学習を支える隠れたエンジン
ワーキングメモリとは、外部から入ってきた情報を一時的に記憶し、同時にそれを処理する能力のことです 。よく「脳の作業台」や「脳のメモ帳」に例えられます 。この作業台が広ければ広いほど、多くの情報を一度に扱い、複雑な思考ができるようになります。
ここで重要なのは、短期記憶との違いです。短期記憶は、電話番号を一時的に覚えるように、情報をただ保持する能力です。一方、ワーキングメモリは、覚えた数字を使って暗算をするように、情報を保持しながら「操作・処理」する能力を指します 。会話中に相手の話を覚えながら自分の返答を考えたり、複数の指示を理解して順番に実行したりするのも、すべてワーキングメモリの働きによるものです 。
このワーキングメモリは、主に3つの要素で構成されていると考えられています 。
- 音韻ループ (Phonological Loop): 「内なる耳」とも言える部分で、言葉や数字などの音声情報を一時的に保持します。先生が読み上げる問題の数字を覚えておくときなどに使われます 。
- 視空間スケッチパッド (Visuospatial Sketchpad): 「内なる目」であり、図形や物の位置関係、文字の形といった視覚的・空間的な情報を保持し、操作します。頭の中で図形を回転させたり、数の大きさをイメージしたりする際に不可欠です 。
- 中央実行系 (Central Executive): 「司令塔」の役割を果たし、どこに注意を向けるかを決定し、音韻ループと視空間スケッチパッドの働きを管理・調整します 。
1.2 決定的なつながり:算数の苦手とワーキングメモリの科学
多くの研究が、ワーキングメモリの容量が国語、理科、社会など様々な教科の成績と密接に関連していることを明らかにしていますが、特に算数(数学)の能力との間には強い相関関係が認められています 。
そして、ここからが最も重要な点です。近年の研究は、算数の能力の発達において、特に視空間ワーキングメモリ(視空間スケッチパッドの働き)が極めて重要な役割を担っていることを示唆しています 。
算数が苦手な子どもは、言語性のワーキングメモリよりも、この視空間性のワーキングメモリに弱さを抱えているケースが多いことが報告されています 。
では、なぜ視空間ワーキングメモリが算数にそれほど重要なのでしょうか。具体的な算数の課題を見てみると、その理由がよくわかります 。
- 繰り上げ・繰り下げ計算: 例えば、「15+7」を計算するとき、「5+7=12」の「1」を一時的に頭の中に保持(記憶)し、それを十の位の「1」と足し合わせる必要があります。この「繰り上げた1を覚えておきながら次の計算をする」という作業は、まさにワーキングメモリ、特に数の位置をイメージする視空間的な働きを酷使します。
- 位取りの理解: 「25」と「52」では同じ「2」と「5」という数字が使われていますが、その価値は全く異なります。この位の概念を理解するには、数字が置かれている「場所」を空間的に認識する能力が必要です。
- 図形・グラフの問題: これらは本質的に視覚的・空間的な情報を処理する課題であり、視空間ワーキングメモリの能力が直接的に問われます。
- 文章問題: 問題文の状況を頭の中で描き、登場する数字を抽出し、それらの関係性を組み立てて式を作るプロセスは、情報を一時的に保持し、視覚的に整理する高度なワーキングメモリ活動です。
一部の子どもたちにとって、これらの困難は「算数障害(ディスカリキュリア)」と呼ばれる学習障害に起因することもあります。この障害は、数の概念を処理する脳の機能やワーキングメモリの問題と深く関連していると考えられています 。
ここで見えてくるのは、保護者が抱きがちな「うちの子は国語はできるのに、なぜか算数だけができない」という疑問への一つの答えです。
それは、子どもの全体的な知能が低いわけではなく、言語能力はしっかりしている一方で、算数で特に必要とされる「視空間ワーキングメモリ」という特定の認知機能にボトルネックを抱えている可能性がある、ということです。
これは非常に希望のある見方です。「算数脳がない」という漠然とした問題ではなく、「特定の認知スキルをサポートすればよい」という具体的な課題へと変わるからです。
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具体から抽象へ – そろばんが算数の土台をどう再構築するか
ワーキングメモリ、特に視空間的な能力が算数の鍵を握ることがわかりました。では、どうすればその能力をサポートできるのでしょうか。ここで、古くから伝わる「そろばん」が、現代の脳科学の観点からも非常に有効な解決策として浮かび上がってきます。
2.1 数字を「本物」にする:そろばんの第一の超能力
多くの子どもが算数でつまずく最初の壁は、数字の「抽象性」です 。彼らにとって、「7」という記号が、りんご7個という具体的な量と結びつくまでには、大きな精神的飛躍が必要です。視空間ワーキングメモリが弱い子にとっては、このハードルはさらに高くなります。
そろばんは、この抽象的な数字と具体的な量の間に橋を架ける役割を果たします。そろばんの珠(たま)は、一つひとつが「1」や「5」という量を表しています。子どもは自分の指で珠を動かし、「見る」「触る」という具体的な感覚を通して、数の増減を体験します 。この「具体から抽象へ」というステップが、数字への苦手意識を和らげ、数学的な思考の土台を築くのです 。
特に、そろばんの最大の利点の一つは、十進法と位取りの概念を視覚的に、そして直感的に理解できる点にあります 。例えば、「23 + 18」という計算を筆算で行う場合、子どもは繰り上がりのルールを暗記して適用しなければなりません。しかし、そろばんなら、
- 十の位の珠を2個と1個動かす。
- 一の位の珠を3個と8個動かす(ここで珠が10個になり、繰り上がりが発生する)。
- 繰り上がった結果として、十の位の珠を1個増やす。
という一連の操作を物理的に体験します。この具体的な手ごたえのあるプロセスを通じて、子どもたちは位取りの仕組みを自然に体得します。この理解は、後の筆算やより大きな数の計算においても強力な基盤となります。文部科学省の調査でも、そろばんを授業に取り入れた小学校で算数嫌いの児童が減少したという報告があり、特に数の概念理解が苦手な児童への効果が顕著でした 。
幼児期には、よりシンプルな「百玉そろばん」から始めるのも有効です。これは1種類の珠だけで構成されており、1から100までの量を視覚的に捉えたり、足し算や引き算の基礎となる「10の合成・分解」(例:7は3といくつで10になるか)を感覚的に学んだりするのに役立ちます 。
2.2 学習アプローチの比較:なぜ、そろばんは違うのか
そろばんが単なる計算道具ではなく、根本的に異なる認知アプローチであることが、従来の筆算学習と比較すると一層明確になります。この違いを理解することは、なぜそろばんが算数の苦手を克服するのに有効なのかを知る上で重要です。
特徴 | 従来の筆算学習 | そろばん学習 |
数の表現 | 抽象的な記号 (1, 2, 3) | 具体的・視覚的・触覚的な珠 |
計算プロセス | 暗記したルールと抽象的な手順に依存 | 物理的な操作から始まり、珠の動きのメンタルイメージ化へ移行 |
主な認知負荷 | 抽象的なルールを思い出すための言語性・手続き的記憶に高い負荷がかかる | 初期負荷を物理的な道具に委ね、その後、視空間ワーキングメモリを直接的に鍛える |
エラーのフィードバック | 遅延的(最後に答え合わせ)。間違いが抽象的で分かりにくい。 | 即時的かつ視覚的。珠の配置が間違っていれば、物理的に誤りが「見える」 |
育成される中核スキル | 論理的な手順を正確に追う力 | 直感的な「数の感覚」、空間的な思考力、そして集中力 |
この表が示すように、従来の学習法がワーキングメモリ(特に視空間ワーキングメモリ)に大きな負荷をかけるのに対し、そろばんはまず物理的な道具でその負荷を軽減し、その上でまさにそのワーキングメモリ自体を鍛え上げるという、理想的なプロセスをたどるのです。
計算力だけじゃない:そろばんがもたらす全てのメリット
そろばんの価値は、計算が速くなることだけに留まりません。むしろ、その真価は、算数が苦手な子どもたちが抱える認知的な課題や心理的な障壁を、多角的に解消する点にあります。
3.1 究極の脳トレ:「脳のメモ帳」を直接鍛える
そろばん学習が上達すると、「珠算式暗算」という段階に入ります。これは、頭の中にそろばんを思い浮かべ、そのイメージの中で珠を動かして計算する技術です 。
この珠算式暗算こそが、そろばんがワーキングメモリを鍛える核心部分です。頭の中にそろばんという複雑な視覚イメージを保持し、それを能動的に操作し続ける行為は、まさに視空間ワーキングメモリにとって、純粋かつ強度の高いトレーニングとなります 。実際に、そろばん式暗算アプリ「そろタッチ」を用いた研究では、ワーキングメモリを含む一部の認知機能が向上する可能性が示唆されています 。
このプロセスは、脳全体を活性化させることにもつながります。計算のルールを理解する論理的な左脳と、そろばんをイメージする直感的・空間的な右脳の両方を同時に、かつバランス良く使うため、脳の神経ネットワーク全体の発達を促すと考えられています 。

3.2 揺るぎない集中力を育む
そろばんの練習は、非常に高い集中力を要求します。それは、①読み上げられる数字を「聞く」(聴覚)、②そろばんの珠の動きを「見る」(視覚)、③指先で珠を正確に「操作する」(触覚・運動感覚)という3つの活動を、瞬時に、そして同時に行う「三位一体」のトレーニングだからです 。この多感覚をフル活用する作業は、脳に他のことを考える余裕を与えず、自然と深い集中状態へと導きます。
さらに、多くのそろばん教室では、制限時間内にどれだけ多くの問題を正確に解けるかを競う練習が取り入れられています 。この時間を意識した訓練が、持続的な集中力を養い、その力は学校の授業や宿題、他の習い事など、あらゆる場面で応用できる貴重なスキルとなります 。
3.3 計算を超えて:自信と「やればできる」心を育てる
算数が苦手な子どもは、しばしば「失敗」→「不安」→「回避」→「さらなる失敗」という負のスパイラルに陥りがちです。算数に対する苦手意識は、やがて学習全般への自信喪失につながりかねません。
そろばんは、この悪循環を断ち切る力を持っています。そろばんには、10級、9級…と続く明確な進級制度があります 。この細かく設定された目標が、子どもたちに達成可能なゴールと、目に見える形での成功体験を継続的に提供します。
「できなかった計算ができた」「検定試験に合格した」という一つひとつの「できた!」という体験は、子どもの自己効力感、すなわち「自分はやればできる」という感覚を育み、自己肯定感を大きく向上させます 。ある保護者は、そろばんを始めてから子どもが自信を取り戻し、学校の宿題も簡単にこなせるほど算数が得意になったと報告しています 。
このプロセスは、単に認知能力を鍛える以上の意味を持ちます。そろばんは、抽象的でしばしば威圧的な筆算の世界から子どもを解放し、ゲームのように具体的で手ごたえのあるツールとの対話へと導きます。これにより、数字に対する恐怖心や不安が和らぎます。この感情的なリセットこそが、子どもが再び学習に向き合うための、そしてワーキングメモリが十全に機能するための、不可欠な土台となるのです。
3.4 科学的な視点からの注記
専門家として、バランスの取れた視点を提供することも重要です。そろばんが「地頭を良くする」「天才脳を作る」といった効果を謳う声もありますが、一部の脳科学者からは、こうした広範な効果については、まだ十分な科学的根拠(エビデンス)が確立されていないという指摘もあります 。
しかし、珠算式暗算が視空間ワーキングメモリを鍛えるメカニズムや、集中力、そして具体的な操作を通じた数の感覚(ナンバーセンス)を養うという点については、多くの研究や実践例がその有効性を示唆しています。たとえ他の効果が未解明であったとしても、これらの算数の苦手克服に直結する中核的なメリットだけでも、そろばんを検討する価値は十分にあると言えるでしょう。

結論:お子さんの算数の旅における、新たな道筋
これまで見てきたように、お子さんの算数に対する苦手意識は、多くの場合、脳の「作業台」であるワーキングメモリ、特に視空間的な能力の弱さに根差している可能性があります。そして、「そろばん」は、この課題に対して二重の解決策を提供する、科学的にも理にかなったアプローチです。
第一に、そろばんは珠という具体的なモノを通して、抽象的な数の世界への橋渡しをします。これにより、算数の根幹である数概念や位取りの理解を、直感的に、そして確実に築き上げます。
第二に、珠算式暗算へと進むことで、まさにボトルネックとなっていた視空間ワーキングメモリそのものを、集中的にトレーニングします。これは、弱っている筋肉を直接鍛え上げるようなものです。
しかし、そろばんがもたらす最大の贈り物は、計算力の向上だけではないかもしれません。それは、揺るぎない集中力、困難な課題に粘り強く取り組む忍耐力、そして何よりも「自分はできる」という確固たる自信です。算数が苦手だった子どもが、成功体験を積み重ねることで、学ぶことそのものへの意欲を取り戻し、たくましい学習者へと成長していく。それこそが、そろばん学習の真の価値と言えるでしょう。
もしお子さんの算数のことで悩んでいるなら、そろばんを過去の遺物としてではなく、子どもの認知基盤と未来の自信を育むための、脳科学に裏打ちされたツールとして捉え直してみてはいかがでしょうか。お近くの教室やオンラインでの体験学習などを通じて、お子さんに合った新しい学びの道を探してみることは、その価値ある第一歩となるはずです。
